沿革

〜 透禅寺沿革 〜

透禅寺は、御本寺室蘭市安楽寺三世住職 丹羽月溪様が鷲別地域住民の要望に応え、大正2年4月この地に鷲別説教所として開教されました。

正5年1月より、初代監寺役として風間忍甲界師に専従赴任いただき鷲別地区の布教教化に勤める。

和13年10月 風間忍界師遷化なされ、同年引き続き藤井泰仙師に後任教師として赴任いただくも、すぐに徴兵に出向され戦死

・その後、苦境の時代を送るが、和18年11月 堀口透箭師を後継者として迎え入れ、戦中戦後苦境の中を大変ご苦労なされ檀信徒教化に勤め、昭和27年前本堂46坪、庫裡45坪を建立し、布教教化の基盤を整える。

和29年5月 曹溪山透禅寺として寺号公称の認可を受け、當寺三世住職として山門の興隆、檀信徒教化に多大なる尽力を尽くされた。

和47年4月 三世住職堀口透箭師四大不調の為、釧路市定光寺徒弟峰田弘道師が後継者として赴任するも、同年10月三世住職堀口透箭師遷化。永年の功績が認められ、御本寺様より中興の免牘を授かる。

和48年1月 峰田弘道師が四世住職に就任し総代・役員会、婦人会、梅花講、朝粥会(座禅会)等を発足し檀信徒教化の基盤を整え且つ、(財)透禅寺少年研修館(書道教室)を立ち上げ青少年の健全育成、地域住民の布教教化に誠心誠意力を注ぐ一方、調停委員、教育委員会委員長、民生委員を歴任し、地域社会の為に尽力を尽くす。

和49年頃~ 庫裡、檀信徒会館、納骨堂等の伽藍を次々と整えて行き檀信徒の要望に応える。

和59年10月 前本堂老朽化の為、檀信徒からの熱き要望により現本堂を建立し、檀信徒教化の基盤を固める。

成5年3月 弘前市照源寺徒弟 熊谷謙二師が後継者として赴任。同年6月 峰田弘道の長女、光恵と結婚し姓を峰田に改姓。住職を補佐し檀務に従事し、平成6年9月副住職に就任。

成6年11月 開創80周年を迎えるに当たり諸堂を改修。師匠である釧路市定光寺住職 大道晃仙老大宗師を拝請し、開創80周年慶讃大法要を厳修。

成10年5月 檀信徒のご協力により大般若経六百巻を新たに揃え、当時、大本山總持寺副貫首となられた師匠、大道晃仙老大宗師を拝請し、大般若経六百巻新添開封祈祷法要が修行された。

成16年11月 開創90周年を迎えるに当たり檀信徒のご協力を仰ぎながら、三世様からの念願でありました開山堂と祭祀継承者が途絶えていくことを踏まえて、堂内に永代供養墓を建立。併せて第2納骨堂・紫雲堂(寺院控室)を増設し、大本山總持寺貫首となられた、大道晃仙大禅師猊下を特請し、開創90周年・開山堂落慶大法要を厳修。

成17年6月 全てをやり終えた如くに、四世住職 峰田弘道師四大不調の為遷化。定光寺安居時代より、弟子として大道禅師様のお側にお仕えし、大本山總持寺貫首に登られてからは、報恩大授戒会の室侍長として従事し師匠への報恩を尽くす。永年に渡る御本山への功績が認められ、生前中には稀にみる大本山總持寺贈監院の称号を授かる。又、御本寺様より重興の免牘が可せられた。

成17年8月 峰田謙二師が五世住職に就任し、翌年6月先代さま一周忌法要終了後、庫裡・会館の増改築工事に着手。

成19年6月 四世さま三回忌法要に併せ、五世住職晋山結制大法要(新住職お披露目の式)を厳修。この時法要費捻出の為、本堂格子天井に256枚の両山紋が刻印された天井板を新設し、檀信徒に施主として御奉納を頂き、その奉納金にて檀信徒の要望であったトイレを増設。

成24年~ 明年開創壱百周年を迎えるに当たり、記念事業の一環として本堂内外の改修、境内地の整備、山門門柱の新設工事を施工。又、本堂西序正面に十一面千手観音菩薩像を母体とした、壱百体の聖観音菩薩像をお祀りし、本堂建立以来30年の歳月を経て、先代さまからの宿願でありました8枚の彫刻欄間を納入安置。

成26年6月 大本山總持寺副貫首 石附周行老大宗師を拝請し、住職の長男を首座に充て五世再会結制、龍憲上座首座法戦式・開創壱百周年慶讃大法要を厳修。

和3年9月 歴住塔(歴代住職のお墓)・無縁共同墓(無縁となった方々のお墓)・六地蔵菩薩像を新規建立。

現在、現董五世住職 峰田謙二師と副住職 峰田龍憲師にて檀信徒のご協力の元、曹溪山透禅寺の法灯護り檀務に従事している。